緊急告知 両国ちぎらの閉店

以前は本所で「吉良亭」、最近は両国で「ちぎら」と店名を変え、名物の「スタミナ鉄板焼き」を提供していたお店が残念ながら閉店したようですが、ファンの方、がっかりしなくても大丈夫です。
亀戸の「きのめ亭」でほぼ同じものが提供されていますよ。

浮谷東次郎、生沢徹、式場壮吉

1964年に開催された第二回日本GPでのポルシェ904の修理と、「一周だけ抜かせて」「いいよ」という密約(?)での主人公は、ポルシェ904の式場壮吉と、プリンス・スカイラインGT−Bの生沢徹です。

式場は山下清の主治医である式場隆三郎の甥で、妻は欧陽菲菲
生沢は生沢朗画伯の息子です。

60年代当時天才といわれたドライバーは二人居て、それは浮谷東次郎と生沢徹です。
二人は正に剛と柔で、武蔵と小次郎になぞらえられていました。
浮谷はファッションに構わず、無骨ですが東京から鈴鹿サーキットまで未完成の東名高速を乗り継ぎ4時間位で行っていたようです。
後日、私もある日京葉道路をレーン変更を繰り返し、かなりマナー悪く千葉方面に向かいめちゃくちゃ飛ばしていた所、後ろから、ほとんど反対車線(夕方ですいていました)を猛スピードで走ってくるトヨタコロナにあっという間に抜かれました。それはコロナではなく、コロナのボディにクラウンのエンジンを積んだ輸出用の「ティアラ」を運転する浮谷さんだったのでびっくりしました。

逆に生沢は細身でドライビングもスマートで冷静、何時もVANを着用して、公道では飛ばさず紳士的でした。

浮谷は市川の名家の出身で式場を含めた三人は親友でした。

生沢と浮谷は当時最大のライバルとされていましたが、63年の第一回、64年の第二回日本GPを始め全てのレースで同じクラスに出場したことがありませんでした。

日本GPは64年の第二回が終わった時点で、メーカー同士の過激な競争がエスカレート、資金面も圧迫するということで、65年は開かれないことになりました。式場のポルシェ904も当時スカイラインに敵わないと悟ったトヨタが購入し、式場に与えたと言われていましたが、最近の式場さんの書いたものを読んだところ、自分のお金で三和から買ったと言っていました。本当のことは闇の中ですが。

そんな訳で65年は日本GPの代わりに船橋サーキットで第一回CCC(クラブチャンピオンシップカー)レースが開かれました。
この大会の2レースで、浮谷と生沢が同時エントリーしました。当時はどちらが本当に速いのか大変話題になりました。

当日は雨になり二人の出場するレースが始まりでした。どちらのレースが先かは憶えていませんが、生沢スカイラインGT-B対浮谷ロータスエラン、と生沢ホンダS600対浮谷トヨタS800です。

スカイライン対エランはエランがR26というレーシング仕様でもあり、コースが狭く曲がりくねったテクニカルコースでもあったためエランの圧勝でした。
問題はホンダ対トヨタの一戦でしたが、序盤に浮谷は他車と接触フェンダーをつぶしてピットイン、応急処理後最下位でコースに戻り、語り継がれる追い上げを見せます。コースに戻ると毎周先行車を抜き去り、残り6周位で首位を走る生沢に続く2位にあがり、3周を残したくらいでついに首位に立ちました。
そしてそのままゴール、勝利しその瞬間、浮谷のほうが速いという評価になりました。
油温計は130度にもなったそうです。
そして何よりも格好良かったのは、浮谷が表彰台の中央に裸足で上がったことです。後に記者が理由を聞くと「ドライビングシューズが雨に濡れるのが嫌だった」と答えたそうです。後に彼は濡れた革が硬くなりアクセル、ブレーキの感触が微妙に変わるのが嫌だった、とも答えています。

前置きが長くなりましたが、生沢の表彰台のペプシ、浮谷の表彰台の裸足、共に知っている人は少なくなりました。
これが本当のプロなんでしょうね。

その後浮谷は本田宗一郎に自著の「がむしゃら1500km」という本を「つきましては社長のご子息の博俊さんと友人になりたい」という手紙と共に贈り、本田博俊と後に親友になりました。

浮谷はあっけらかんとして誰にも好かれる性格、生沢は近寄りがたい雰囲気を持っていました。

その後浮谷はホンダS600を改造し、真っ黒に塗った、通称「カラス」で大活躍し、オートスポーツ誌に掲載した「鈴鹿をS600で3分を切る」という記事はレーサーを目指す若者のバイブルになり、我々も鈴鹿を走るときに持って行きました。360ccの軽で5分以上掛かったのに。

そして、20代前半に鈴鹿でS600で練習中に、落とした部品を探しにコースに入った人を避けてスライドし、1本目の照明灯はさけられたのですが、2本目に激突、帰らぬ人になりました。それを聞いた本田宗一郎は号泣したそうです。
小林彰太郎も彼をとても買っていて、特集が組まれました。

お台場ビーナスフォートのヒストリーガレージ

お台場ビーナスフォートのヒストリーガレージには数々のヒストリックカーが展示をされていますが、その車種は25年ほど前に私が座長となって決めました。
当時、トヨタに車種選定を依頼された電通にはその知識が無く、めぐりめぐって私のところに話が来ました。分厚い企画書にはヒストリーガレージ(当時はまだ名前は付いていませんでしたが)の設立趣旨が描かれていました。
それによりますと、車の世界を「未来ゾーン」「現在ゾーン」「過去ゾーン」の三展示に分け、トヨタが出資をして車にもっと興味を持ってもらうというような事が書いてありました。
「未来ゾーン」は例えば、コンセプトカーの出品、子供たちに未来の車を描かせる。「現在ゾーン」ではミニコースで販売中のトヨタ車の試乗などがあったようです。そして「過去ゾーン」では「トヨタ車に限らず、時代のエポックを作った車を展示する」が大きなテーマの一つでした。
その展示する車の条件は
1、予算枠がある。(いくらだったかは憶えていませんが2億円くらい?)
2、国産車、外国車は問わないが実車が入手できる市販車。
3、テーマにより効率よく、分類展示が出来ること(例えば今月はFF車特集、来月はオープンカー特集等)。
4、上記の条件で30台位。でした。
私は、当時GSCCというスポーツカークラブの会長をしておりましたので、メンバーを集めこのことを話すと「面白いからやろう」と無償で引き受けることに決定しました。
メンバーの中には博報堂東急エージェンシーの社員もいましたが、あえて加わることになりました。
選定はとても楽しい作業で、夕方電通の下請け会社の会議室に集まり議論しました。
車種選定の議論に入り、1番にフォードT型とVWビートルが挙げられましたが、T型は予算的にも実車的にも入手困難ということで、ビートルがノミネートされ、初期のスプリットウインドウがあればそれにしようという事になりました。
以下、国産車では、スバル360、1000。ホンダS500かS600、N360、CVCCのシビックトヨタは初代カローラ1100、初代クラウン、2000GT、スポーツ800。日産はフェアレディ(SPかSRかZ)、サニー1000、GTR(プリンス)、ブルーバード。マツダはロータリークーペかコスモスポーツをノミネート、その他三菱、ダイハツ、スズキからもギャランGTO-MR、コンパーノスパイダー、フロンテクーペなど議論しましたが、エポックメイキングではないとし、該当車なしとしました。
選定に議論が沸騰したのは外国車で、それは幾晩にも亘る大議論でした。
主だったノミネート車は国別で、イギリスは、ロールスロイス、ディムラー、ベントレージャガーロータス、MG、トライアンフオースチンアストンマーチン、モーリス、ウーズレー、ライレーなど。議論百出で最初に決まったのはジャガーEタイプとミニでしたが、ミニは850にするかクーパー1300にするかで議論となりました。
以下、比較的容易に決まったのは、アメリカでは、コルベット。フランスではシトロエン(トラクシオン・アバン、DS、2CVのどれか)、ルノー4CVかキャトル。ドイツではポルシェ911か356。BMWはノイエクラッセの内の1台。アウディはクワトロ。メルセデスでは300SLが出ましたが予算オーバーでボツという具合でした。
最も難しかったのはイタリア車で革新的な小メーカーが多数あったため、難航しました。もちろん最初に決まったのはフィアット500でしたが。フェラーリは予算的にも選びにくかったです。
ということで、1ヶ月で車種を決定して、電通に提出しました。
数ヵ月後、オープンセレモニーに非公式に招待されましたが意見が大いに反映されていたのが喜びでした。
いわく「50年代から70年代の車を展示している」としていますが、予算的に戦前の車は無理でしたので、後付けのコンセプトと思われます。

ホンダスポーツカブC110


この写真のバイクは、私が初めて買った(買ってもらった)エンジン付きの乗り物で、ホンダスポーツカブC110と言います。
昭和35年10月発売開始」とホンダのHPにあります。私が昭和21年6月生まれですので、14歳になった4ヵ月後に発売になりました。
昔は14歳になると50ccの許可証が取得でき(中学を出た人が蕎麦屋の出前が出来るように・・・と聞いています)、私はそのカッコ良さに堪らず、父にねだって買ってもらいました。
多分年末だったと思います。と言うのは翌年からマイナーチェンジがあり白いタンクが、車体色とメッキのツートンカラーになったからです。
当時はホンダのデイーラーなど無く、近所の(須田)自転車屋から買いました。店先に小さな「ホンダ販売店」の看板がありました。
自転車屋では当時発売したての私のスポーツカブが入荷すると「1週間位飾らせてくれ」というので了解すると、小さなショーウインドウに誇らしげに飾られていました。もちろん私は毎日見に行きました。
そして1週間後に渡されたバイクを手にした時の感動は一生忘れることが出来ません。最初に思ったのが自転車のように漕がなくてもいいんだということで、グリップをひねるだけで前に進むことに感動しました。それもすごいスピードで・・・。
でも運転に関しては何も教わらなかったので、交差点では必ずローギアまで落として通過していました(ギアに悪かったでしょうね)。
そんな懐かしい写真がゲットできましたので、昔話を。52年前の事です。

我が青春の東京自動車エンジン(その1)

あれは、確か1975年(昭和50年)頃のことです。東京自動車エンジンの石橋氏より突然電話を戴きました。
その頃私は、モーターマガジン社という出版社で「ホリデーオート」という雑誌の広告を担当しており、電話と言うのは「ホリデーオートに広告を載せたい」というものでした。
強く興味を持った車好きの私は、通常、広告代理店に連絡をするところを、それをせず自分で出かけて行きました。
そこで石橋社長に初めてお会いし、即座にその人柄に惹かれ、自分自身で担当させて頂くことになりました。
それは、私の人生を変えた瞬間かも知れません。
同社は広告は初めてということで、私は自分の持てる力を力量以上に発揮し、広告をデザインし「ホリデーオート」誌に掲載しました。俗に「エントツ」というタテ1/3ページの小さな広告でしたが、次第に反響を呼び、特に日産のL20系エンジン(スカイライン、Z、セドリック、グロリア)のお客様を中心に、沢山のお客様がお見えになり予約制にせざるを得なくなるほどになりました。
人気の秘密はいろいろありましたが、それは次回に書きましょう。